「干いも」は、ひたちなか市近郊の冬の風物詩として現在も昔ながらの方法で作り続けられています。
作り方は、蒸気で蒸した「サツマ芋」をピアノ線で平たく切り、それを天日で乾燥させるだけです。
冬場の天気の良い日であれば、およそ10日間で柔らかくネットリとした美味しい「干いも」が出来上がります。
この「干いも」のルーツについて、ほんの少しだけ歴史を紐解いて見ましょう。
「干いも」の原料となるサツマ芋は、15世紀末にコロンブスが新大陸からヨーロッパへ持ち帰ったのが始まりとされています。
日本への伝来は、およそ400年前に唐船が宮古島へ入った際に持ち込まれたとされています。その後、琉球、薩摩を経て本州に広まったようです。
日本でサツマ芋が本格的に栽培され始めたのは1705年、船乗りの前田利衛門が鹿児島県山川町に琉球産のサツマ芋を最初に植えたのが始まりとされています。その後、青木昆陽の尽力によって全国に広がり、九州、東海、関東地方一円で栽培が盛んになりました。サツマ芋は青木昆陽が名づけ親であるとの言い伝えもあります。
「干いも」の誕生については、これまで明確な記録や言い伝えはほとんど無く、いつの時代に誰が作り始めたかは明らかではありません。おそらく、青木昆陽がサツマ芋の栽培を始めてから後に、魚の干物と同じ要領で漁村を中心に作られ始めたのではないかと推測されます。本格的に「干いも」が生産され始めたのは明治の中頃で、当初は静岡県内の一部で生産されでいましたが、明治末期ごろから当地でも生産されるようになりました。
いつの時代にもグルメ志向は強く、「干いも」についてもその例外ではなかったようです。特に味や食感については、より甘く、より美味しく、そしてより見た目が重要視され、べっ甲色をした柔らかくネットリしたものが好まれるようになりました。
このようなニーズを受けてかは定かではありませんが、「干いも」の原料となるサツマ芋は、明治中頃から品種改良が急速に進み様々な品種のものが栽培されるようになりました。この中で、雄一「白いイモ」として関東地方(特に茨城県内)で盛んに栽培されるようになった品種に「玉豊(タマユタカ)」があります。この品種は、見た目は白く丸くコロコロし、蒸して食べるとホクホク感がなく、食用としてはあまり好まれておりません。ところが、この玉豐には、澱粉質が糖に変化(糖化)しやすい特長があり、この糖化しやすい特質が甘味と柔らかさを引き出すための重要な要因になっているのです。したがって、「干いも」の原料には最適であり、現在原料芋はこの玉豊が主流に栽培されています。
当センター(茨城県ひたちなか市長砂町)で「干いも」を作り始めたのは、明治の末期頃。
当時、静岡から製法を習い、3代前の当主永井金太郎が作り始めました。
製造当初は、なかなか思うように美味しい「干いも」を作ることが出来ず、蒸す、皮を剥く、切る、干すの一見単純な製造工程の中にも、様々なノウハウがあり、この技法を確立するためにかなり時間と労力がかかったそうです。大正末期から昭和初期ごろになると、「干いも」の製造技法もほぼ確立され、その成果は県内各地で開催される品評会にて生産者同士で競われるようになりました。
当センターの2代前当主永井義は、父永井金太郎とともに長年構築した技法で製造した「干いも」を品評会に出展し、昭和2年2月に見事一等賞を得ることができました。
この技法は、70年以上経った現在でも伝統を守り続けています。